叶えたいことがたくさんある



松太郎の表情は、ぼんやりとしていてどうとったのかは分からない。
それでもしきる自身、口から零れ落ちる事を止めない。

「…あまりに一緒にいすぎて、ほんとうに見なきゃいけない事を見てなかった気がする」

松太郎がくちびるを開けたのは、そう告げてから数十秒たったのち、

「見なきゃいけないこと、か」
「…うん。でも、別に応えてほしいって思っているわけじゃないし、ただ伝えたかった」
「今までの関係が崩れるって思っていなかったのか」

弱弱しい言葉がひどく胸に突き刺さる。
今までの、ただ一緒にいて傍にいる。そんな生ぬるい関係でもよかった。
だが、
生ぬるさだけでは

「思ってたよ。でも、駄目だった。伝えないまま何も知らないふりを押し通すなんて、…」
「うん」
「…無理、だった。ごめん、松。忘れてくれていいから」

殆ど見えていないという松太郎の眼が、真っ直ぐに此方を見据えている。
左目が
ふと細められて、笑みを模った。

「応えなくていい、忘れてくれていい。本当にそう思ってる?」
「・・・」
「馬鹿だなあ、しきる。違うって云えばいいんだよ」

ふらふらとした手が、しきるへ伸ばされる。
その手をとってもいいものか、
それでも是か否か思惟している暇もなく、しきるはその手を両手で握り締めた。

「松、…」
「大丈夫だよ、俺は応えない事も、忘れる事もしないから」
「それ、は」
「大丈夫」

瞼が熱い。喉が痛い。
松太郎はちいさく笑って、「泣くな」と両手を握り返す。
松太郎の手の熱さに眉根を寄せた。

「…熱い」
「熱、あるからな」

心うちはひどく静かで
なだらかで
こんな感覚もあるのだと

「…なあ、松。おれ、おまえを守れるかなあ」
「心外だな。俺もおまえを守るよ。昔みたいに」
「む、昔は昔だろ。今はおれだって」

ちいさく笑って、咳をする。
手を握り締めたまま、眠ろうとする松太郎を見下ろす。
眠れるなら眠った方がいい。

「――おれだって、守れるよ」

気を抜けば再び流れそうになる涙を、手の甲で乱暴に拭う。
たぶん、眠っているからもう聞いてはいないだろうけど
それでもいい。
聞かせようとしたわけじゃない。
どちらかと言えば、自分に言い聞かせようとしていたのだから

「守ってみせる」

手を離して、自分の部屋に戻る。
静かだ。
いっそ不気味なほどに。
部屋の中で正座して
供物台に乗せてある斧を見下ろす。
腿の上に手を乗せ、握り締めてから息を吸い、吐き出した。
せめて、
せめて、清浄に

「…父さん、どうか見守っていてくれ」

数年前に死んだ父は、厳しかった。
毎日この斧を持たせ、これが命の重みだと

おまえは此れを守るために使わねばならない。おまえの眼の為にも、これは将来、決してなくてはならない物になってしまうだろう。

「もう、いいよな。俺、これを使ってみる。この前は未だ、霞んでて見えなかったけど、今ははっきり見えるよ。この使い道が」

前、この斧を手に取ったとき、何も見えなかった。
たぶん、この家の人間が5人も死んだという事実で頭に血が上っていたのだろう。
今はひどく静かだ。
とても、静かだ。
湖面が、波打ってさえいない。

「この町を、守ってみる。松の生まれた場所なんだから」

月夜
満月
ぼんやりとした、霞んだ影
ヒトガタの
見知った、懐かしい影

「…お父さん」

短い黒髪
月夜に照らされて、ぼんやりと影を保っている。
その表情は見て取れないが、笑っているような気がした。

「うん。おれ、頑張ってみるよ。母さんの事は大丈夫だから」

目を伏せた後、そこにはもう、父の姿はない。
静かな夏の空気が、部屋の中を満たす。
立ち上がり、母屋に再び戻ろうと下駄を履いた。

桐とコンクリートがちいさくぶつかる音が聞こえて
月夜に響いた。


母屋に入ろうと下駄を脱いだ後、静かに声をかけられた。

「しきる様」

しっかりとした身体が、此方を向いている。月光の逆光で、表情は掴み取れぬ

「楠木。どうした、こんな夜中に」
「…松太郎様の熱が、上がってきたようです。使用人がお世話をしておりますが、…」
「分かった。直ぐ行く」

幾ら行き慣れた家だからとは云えど、心細いのかもしれない。
長い廊下を渡り、萩の花が描かれた襖を開ける。
一人の付き人がタオルを水に浸していた。

「ご苦労様、おれが代わるよ」
「ですが、しきる様…もうお休みになったほうが」
「大丈夫、眠くないから」

こうべを下げて、彼女は襖を閉めて出てゆく。
彼女の仕事を取ってしまった様な気もするが

「松、」

元々あまり日に焼けていない頬が僅かに赤い。
タオルを退けて、額に手を当てる。

「・・・」

高熱とまではいかないが、熱い。

「厄祓いなんかするからだよ」

素人の厄祓いは肉体的にも精神的にも負担をかけることは、しきるよりも松太郎のほうが知っていたはずだ。

「あんなの、放っておけばいいのに」

だけど、そんな事は出来ない。それが松太郎だ。
松太郎は決してお人よしなどではない。
必要の在る事だけしかしない。ある意味面倒くさがりだとも言えるだろう。

「松」