消えることなかれ



聞いているよ

天井が遠いような気がして
瞼が重くて、直ぐに閉じてしまいそうにもなる。
それでも眠らせてくれないのは蝶の所為
瞑々と声を掛けられていては眠るも眠れぬ

「…明日にしてくれ」
「馬鹿っ!痛々しいったらないのよ」

しきるは出て行ってしまった。
中庭ならばいいのだが
遠くへ行っていなければいい。

「それより何時の間に喋れるようになったんだ」

曖昧な熱の所為か、思考が巧く纏まらぬ
腕を額に当てて、息を吐き出す。
熱いような気もするし、そうでもないような気もする。

「そんな事、どうでもいいでしょ!」
「何が言いたいんだ」
「気付いてるくせに」
「・・・」
「悪趣味よ、松太郎」

左目が熱い。
右目はひどく静寂を守っているが
そのぶん、ひどく不気味に思える。
死のうとした事は決して嘘ではない。
真実だ。
神下ろしをしたまま普通を通せるかと言えば、否としか云えぬ。
何処かで自身がひしゃげ、曲り、ねじれてしまっているのだろう。今も
だから、些細な事
(些細?)
しきるが婿に迎えるという事で
憤りを感じたのは何故か。
正常ではないであろう自分の心うちでは分からぬ
無論、恐れはあった。
普通ではないと云う事も、それは
芙美のような普通の人間だったなら違うだろう。
それでも、見鬼の眼は好奇の眼差しで見られるか、羨望の眼差しで見られるか
それが一番厭だった。
恐怖や嘲りの眼差しなら未だいい。
――なにもしらないくせに。
この目玉は、見せ物ではない。
唯、この世界に生れ落ちてしまっただけだ。
それでも、一人ではなかったから
耐えられた。しきるがいてくれたから

「しきるは、松太郎がいなくなってしまったら、この世界に絶望するわ。なんにも残ってないもの。何の未練もない」
「勝手な事を云うな。しきるは、芙美さんた、」

そこまで言って、飲み込む。
信じていなかった。
信じていなかったのは、松太郎のほう。

「気付いているくせに、か」

口元が歪む。
耳の奥で、蝶の聲が聞こえるが
思考を支配するのは、そうだったのか、と
唯ひたすらにそれだけだ。

「…そうか、そうだったな」
「松太郎、」
しきると松太郎は鏡
同じだけど、違う。
違うけど、同じ。
この世の理から少しだけ傾いた、子供たち。
太陽と月

「ずっと、一緒にいたんだ」

分からない事なんてないと思っていた。
それでも、分かっているふりをしていたのだと
そう、気付く。

「…芙美さんに知られたら、殺されるかもな」
「コロサレル!?」
「ただの憶測だよ。すこし、イザコザがあってね」
「イザコザ…まさか、しきると松太郎の仲を引き裂こうとする不埒者!?」
「さあ…」

蝶の聲が耳に響き、苦笑う。
頭がぼんやりとするが、構わぬ
体さえ、うまく動かない。熱が本格的に出てきたようだ。

「…松太郎、今じゃなくたって」
「何だ、蝶。おまえ急かしてただろ」
「そうだけど、でも寝てないと。…そろそろ牡丹もしきるも帰ってくるって」

阿が牡丹、吽が蝶。
それぞれ個を持ってはいるが、阿吽と言うだけあって繋がっている。
同じだけど、違う。
違うけど、同じ。
名を付けたのは、しきると松太郎だった。
そのとき、花札の絵柄がとても好きで、特に「牡丹に蝶」が一等好きだった。
蝶が牡丹に寄り添っているのか、
牡丹が蝶に寄り添っているのか。
きっとどちらもだと、昔しきると一緒に笑いあった。
勝手に名付けてしまった事もあってか、牡丹と蝶は自我を持ってしまったのだ。
名とは呪縛。
縛る事だ。
それも見鬼の子供の言霊は、力を持つ。
向こう側の存在であった牡丹と蝶は、半分此方に来てしまった。
この神社の狛犬は神使である。
神使は神の使いで
第一の使命は眷属として、うつしよに接触するための存在であるから、ヒトと接するのは珍しくはない。
但し、しきると松太郎のような存在にしか見えないし、聞こえぬのだが
産須那の神の使いとして、在る意味立派にお役目を果たしている。

「…あ」

蝶が嬉しそうに声を上げた。
襖の前に、しきるが座っている。

「――松、」

何処か決心を押したような声色、
そういえば白さんは何処へ行ったのだろう。
先刻から見ないけど
だからか、視界が滲んでよく見えぬ
ただ、しきるが座っている姿は、なんとなしに見える。

「…しきる?」
「白さん、いないな」
「ああ、…うん。何処行ったんだろう」

体を起こそうと布団の中でもがく。
それでも、体は云う事を聞かない。良く分からぬ熱が、頭を襲っているのだと知る。
足が畳をすべる音が聞こえ、此方にしきるが走り寄ったのだ、と
体を支えてくれる手は、夏の初めの所為か僅か熱い。

「松、おれ、おまえが好きだ」

蝶の声が聞こえない。

体を支えてくれている手が、僅かに震えているような気がする。

「・・・」
「同意は求めないよ。伝えたかっただけだから」