この世の憂いを忍び思えば



「おれ、は」
「…しきる?」
「おれは」

確かに、恩だけじゃない。
守ってくれたから
ただそれだけでは

「…昔、さ」

俯いて、

「松、云ったよな」

傍にいればいるほど、互いの厭な処が見えてくる、
確かにそうだと思う。
人は綺麗なだけではいられない。
そんな事、充分に承知していた。
学校という籠の中に居れば、それは痛むほどに理解できる。
それでも、
それでも松太郎は
傍にいて
ずっと一緒にいて
無論、綺麗じゃないところも見てきた。
憎んだり、怒ったりする処も

「…うん」
「でもおれ、松と一緒にいるときはほんとうにたのしいよ」
「しきる」

湖面に指先を入れるような、空気
波紋は何処までもどこまでも広がってゆく。
どこまでも
何時か消える迄

「世界は俺だけじゃないよ」
「知ってる。でも、そういう事じゃない」

ずっと、知っていた。
この世界はそんなに優しくなんてないという事。
知っていたのに
それでも、求めていた。
同じ痛みを、同じ苦しみを

「だけど、そういう事かもしれない。でも、おれは」

それは、酷い事なのかもしれないけど
人は一人では生きてはいけないから
喉が痛んで、俯く。
腿の上に置いてある手がふるえた。
松太郎の事を思うと、心が痛む。

「…ちょっとおれ、外出てくる」

逃げるように襖を閉めて、中庭に飛び出す。
月がうつくしい。
外は僅かに寒く、月が煌々と照っていた。
何処か近くで川の流れる音がする。
近くに川があるのだから当たり前だけど
唯、痛い、と思う。

――痛むだけ?

ふ、
耳の奥で声が聞こえた。
聞き覚えの在る声

「…牡丹」

声が
簪を挿したままだったから、聞こえたのだろう。

「ほんとに、痛むだけ?しきる」
「違うよ」
「…ワタシ、分かるよ。しきるが思ってること」

この当たりは煌々としているけど、たぶん違う場所から見ればひどくもやかかっているだろう
そう、関係のない事を心中で嘯く。

「――好きなんでしょ、松太郎のこと」
「・・・」
「もう子供じゃないもんね、分かってたよ」

目を瞑る。
瞼の裏にまぁるい影が出来た。
月なのだと知る。

「…、おれは」
「いいんだよ。しきる。無理して伝えなくたって。自分の中で押し殺して、流す事もひとつの選択だもの」
「・・・」

考えないようにしてた。
たぶん、怖かったのだと思う。
伝えなくたって、伝えたって、松太郎には嘘を吐けない。
だけどいっそのこと、会わないようにしようと思うことさえしなかった。
信じられなかったのだ。
松太郎に会わずに唯悠然と流れてゆく無意味な時間が。
信じられないし、信じたくもない。

「会えないなんて、おれにとっては死んでいると同じ意味だ」
「じゃあ、伝える?好きだって事」
「…なんか、良く分かんないんだ。どうすれば一番いいんだろう」

耳の奥の牡丹がちいさく笑ったような気がした。

「それこそ、しきるが考えなきゃいけないことよ。もしも、心を殺せるなら伝えない方がいい。心を殺せないなら伝えた方がいい。二つのうちの一つ。それだけ」
「簡単に言ってくれるな」
「うふふ」

おかしそうに笑う牡丹は、その先の未来を知っているかのように
実際は如何なのかは分からないが
しきるには、殺し通せるような強さはない。
そして、伝える勇気さえない。
怖いのだと知る。
月並みだが
伝えたなら、もう傍にいられなくなるような気がした。
傍にいる。
何があっても隣にいると
昔、誓ったのに
それを破ろうとする事は、きっとしきる自身も望んでいない。

「やっぱりしきるは怖がりね。そこが可愛いんだけど」
「う、うるさい」
「昔もそうだったわ。ヒトじゃないものたちに追いかけられて泣きべそかいてたっけ。でも、昔よりずっとずっと強くなった。心も、体も。ずっとずっと。しきるが恐ろしいのは、伝える事じゃない。松太郎に嫌われて、一人になることよ」

もやが
徐々に晴れてゆく。
雲が、去ったのだ。

「良く思い出してみて。松太郎は、どんなしきるでも好きよ。絶対にしきるを裏切らない」
「…でも、松の好きと、おれの好きは、」

ぴたん
湖面が
静かに再び波打つ。

「弱気だね、しきるは。もっといい方向に考えないの?」
「いい方向に行くわけないだろ」
「馬鹿、根底から否定してどうするのよ」

叱責が飛ぶ。
それでも波紋は広がり続けたまま
抑えは利かぬ

「松は、おれとは違う。松の力とおれの力も違う」

違うなら
違うなら、…最初から
あんな言葉、云わないほうがよかった。
だから、松太郎はあの時何も言わなかったんだ。
ただ、笑っただけだった。

「そう。松太郎としきるは違う。だから、別人だから想いあえるんじゃない」
「・・・」
「ワタシと蝶だってそうよ。違うけど同じ。同じだけど違う。そんな存在。そんな存在になればいいのよ。別だから、違うから一緒にいられる。傍にいられる。触れ合えるのよ」

波紋が
消えてゆく。
しじまを守りながら

「違うから好き合える。同じだったら、好きになったりなんかしないわ」

ぼんやりとした影
やわらかな光は、月
松太郎は、おれの月だ。