千早振る神と遊びし竜田姫



「…お前のせいね…!!」
「松ッ!」

やはり
謂れのない感情が肥大している。
憎しみや怒りも無論、恐怖とて同じであろう。
二倍、三倍にもなるのだから
女が手を前に伸ばしながら走り、松太郎の頸さえ締め上げようとする。

「野槌は、おのれを保っていれば憑くこともない」

松太郎の右目が閉じた時、その女の腕を掴んだ。
左目が開き、女を強い眼差しで差す。

「口ばかりの卑しい化け物め」
「…ぎ…ッ」
「この女から離れろ、野槌。何なら『坂道から転がしてやろうか?』丁度いい、直ぐ其処に坂道があるぞ」

ひっ、
女の喉が引きつった。
恐怖を感じているのだと分かる。
随分、松太郎が苛立っているが
何があったのか

「松…?」

ふっ、
野槌が
三メートルはある巨大な体をくねらせ、窓と窓の隙間から泳ぐように去ってゆく。
腕を離し、呆然としている女を見据えた。
憑かれた後だ、直ぐに正気に戻るのは難しい。

「お、お母さんに何をしたの、この化け物ッ!」

喚く芙美を無視し、松太郎は女の目の前で柏手を打つ。
破裂音が、病室に響いた。
はっ、と女の目玉が見開く。

「え…?え?」

まるで憑き物が落ちたかのような顔で、しきると松太郎を見渡す。
それでも何処か、傲慢そうな顔をしていた。

「次は君だ。芙美さん」

芙美の体が大げさなほどに震える。

「松、もういいだろ。…おまえ、顔色悪いぞ」

憑き物落しなどガラではないし、正式な手順を踏まないと松太郎自身が危うい。
元々見鬼というだけであって祓う事は薫子から享受されたというだけだ。
薫子は息子に人ではないものの云う事を聞くな、見ないふりをして口を、目を、耳を閉ざせと教えてきた。
それでももし、
もしも本当に助けたい人がいるのならと
教えられたのもほんの僅かな程度で

「だけど」
「…見たところ、命に係わるようなことはない。今度でいいだろ、もう」
「・・・」

静かに頷いて松太郎が芙美を見据え、くちびるを開く。

「化け物だろうと何だろうと罵るなら罵ればいい。俺は、そういう元に生まれた。徒それだけの事だ」

ふい、
肩までの白い髪を揺らせ、芙美に背を向けた。
横髪で表情は分からないが、それでも険しい表情をしているのだろう。

「――…」

去り際、芙美が発した言葉はよく聞き取れなかったが
それでも寒気のするような呪いの言葉だと、本能で理解した。
確かに芙美には、



離れの母屋に、足音が響く。
楠木だろうか。
あの男はでかいから、足音も大きい。

「…松、」

予想通りと言うべきか
松太郎は熱を出した。
それでも微熱よりほんの少し高いだけのものだが

「慣れない事、するから」
「うん」
「ほっとけばよかっただろ、あんなの命に関わるものじゃないし」

松太郎は布団の上に寝転んで、ぼんやりと遠い天井を見据えている。

「おまえがいたからだよ」
「?」
「おまえがいたから」

左目が緩やかに下りて、完全に目が閉じられた。それでも、未だ眠ってはいない。
くちびるが、何かを模ってゆくような気がした所為なのか、

「――しきる、」

まるで何かを掴むかのように、片手が布団の上から浮く。
その手首は、血管が浮き出ていた。
青白い、それが

「…難しいよな」
「何が、」
「平常心を保つって」

そういえば野槌を祓おうとした時、松太郎の機嫌が少しだけ悪かったような気がする。
何故かは分からなかったが

「二条の家へ婿に入るって聞いて、少し取り乱した」
「は、入らねぇよ!」
「うん、」

何云ってんだ、と笑うけど
松太郎はほんの僅か、悲しそうに目を開けた。
けど
何処かで喜んでいる。

「勝手に云ってるだけだ。迷惑なんだよ」
「はは、…野槌の所為で口が滑ったんだろ。だけど芙美さんは、おまえのことが本当に好きなんだな」
「…それは」

左目を此方を見据えているが、やはり焦点が合っていない。
見えていないのだと
ひどく胸の中が重くなる。

「おれは芙美よりおまえがいい」

心のままに滑り出た言葉は、自分自身の、
10年近い
想い、の

「え、」
「あ、え、っと、おれ、」

左目の

「…おれ」

ぐらぐらとする。
額に手を押し当てた。
松太郎の視線が突き刺さり、目を伏せるが
動揺する心中が、
まるで


「まあ、まるでお雛様みたい」
「ほんとうね、薫子様」
「こうしません?しきると、松太郎さんを結婚させるというのは」
「…薫子様、それは気が早いのでは?」

ちいさなころ
妹を失ったショックで狂ってしまった照子は
互いの未来を約束していた。
薫子様は
困ったように笑っていたように覚えている。
もう10年以上も昔のこと
変わらぬのは照子だけだ
そうなのだと
思っていた。
母の顔には皺が少し増えたし、身長も殆ど一緒になった。
そうなのだと
人は変わるからこそ人なのだと
そう信じて

だから、おれは
変わろうと
ちいさな頃、松と薫子様に守られてばかりだった、おれは
せめて、せめて手に届く人だけでも守れるようにと
強くなろうと
だけど、人には理由が必要だった。
薫子様が亡くなった今、守ろうとあの斧を手に取った日から、徐々に理由を欲しようとしていた。
何故守るのだろう。
守られてばかりだったからなのか、それだけの事なのか、
恩人だったからなのか
それは、


「ちがう」