生憎ずる賢く生きております故



病院はあまり好きではない。
それでもいなければならないときもあるのだ。
それは知っている。だけど、今は

「…芙美の、母親?」

医者から聞かされたのは、直ぐに芙美の母親が来ると
病室にいる芙美の顔色はひどいものだ。
青白く、まるで死人のようで
点滴を吊るされている。
松太郎はただじっと左目で芙美を見下ろしていた。
右目は開けぬまま
淡々と

「しきる。この娘、…」

点滴を繋いでいないほうの腕を捲る。
白い腕に、何かが張り付いていた。
医者が何も言っていなかったのだ、たぶん見鬼にしか見えぬものだろう。

「何だ、これ」
「呪い言葉だ。この娘の負の感情を肥大させている張本人だろう」
「・・・」
「こういうものは吐き出すだけ吐き出せば離れるものさ。たぶんな」

捲りあげた入院着を下ろし、息を吐き出す。
別段松太郎は巫者でもなければ拝み屋でもない。
ただ、知っているというだけだ。

「ただし」
「?」
「但しこの娘が望んでいればこの言葉は離れないぞ」
「憎しみを望んでいるって云う事か?」
「むしろ、飼っているんだろう。飼うものと飼われるもの。それが成立したとき、この娘の体は檻となる」

檻となって、一生憎しみを抱きながら生きてゆかねばならぬ。
四角い檻
それは鬼女となるだろう。
般若のような、哀しい女に

「…尤も、鬼を飼っているのはこの娘だけではないだろうけどな」

鬼など、どの人間にも憑いている。
見えなくとも、それは唯見ないふりをしているだけだ。
己の中の鬼を、

「――難儀だよな。おまえも、俺も」

病室のドアーが音も無く開く。
ヒールを押し付けたような床の音
肩までの黒い髪をたゆらせながら、見知らぬ女が入ってきた。

「芙美!」

甲高い声。芙美とよく似ている。
たぶんこの女は芙美の母親だろう。
ベッドの上の芙美を見下ろして、点滴につながれている手を握り締めた。

「芙美、芙美!」
「――ん…」

かすかな呻き声
芙美の眼が覚めたのだろう。
だがそんな事よりも気にかかったのは、その女の後ろに憑いているもの
巨大な

白蛇だ。
松太郎を反射的に見る。
その顔色は青ざめ、ひどく険しい表情を滲ませていた。

「違う。これは蛇じゃない。…野槌だ」

目も鼻もない、

「…あなたたち」

顔を芙美に向けたまま、感情さえ篭っていない声色で吐き出す。
しきる自身の母親と同じような
声色を落とした後、
女が此方を振り向く。
うつくしい女だと思う
だが、
そう思う前にひどく、――恐ろしい。
何故、こんな二メートル、否三メートルさえある野槌を憑けて平気なのか。
口ばかりの、救う手や自分の足で立ち上がり、歩く事が出来ない足がないアヤカシだ。
口ばかり。
ほんとうに人間にとっての唯一、そうして信じる道、大切な事を見ることが出来ない、ただ口だけの化け物。
それが、野槌である。

「あなたたちが、芙美を」

目が
まるで蛇のように鋭い。

「お母さん」

ゆっくりと起き上がる芙美の顔色は、ずいぶん良くなっていた。
それでも、やはり目玉が異様に鋭い。
まるで、
飾り物のような、硝子玉のような目玉が
二人をじっと見据えている。

ぞっと、した。

「しきるは何も悪くないわ。お母さん」

野槌が、巨大な口を開く。
まるで、二人を嘲笑っているかのような
背筋の寒くなるような光景が、

「ああ、芙美。あなたは寝ていなさい。点滴をしているのだから」
「でも、お母さん。しきるを責めないで。わるいのは」

しきるの足が、一歩下がる。
その目玉が、異様にぎらついているからだ。
獰猛な蛇が、此方を喰おうとしているかのように

「わるいのは、其処にいる男よ」

すっ、
芙美の白く長い指が、松太郎を指差す。
――霞んだ。
目の前が、霞む。
淀んだ、黒い霧

「松、」
「…中てられたな」
「だけど本心なんだろ、これが」
「ああ」

肥大させている。
――悪食め。
しきるが心中で吐き出す。

「ああ、…お前が…」
「…しきるとわたしの間を引き裂こうとする男よ」
「そう。あなたがしきるさんね。…お噂はかねがね」

まるで面をつけたような笑みに、やはりぞっとする。
よい母親を演出するように、微笑む。

「あなたはこの二条の家に婿に来て頂くのですから」
「何勝手に決めて、」
「しきる」

憤慨するが、松太郎がそれを制した。
芙美といい、この女といい、何故此れほどに自身を
分からない。
だが、野槌が憑いているのならば、口だけだということかもしれない。
口だけではなかったら困るが
そもそも、しきるは――

猫田様のところにお嫁に行くんだよ

それは現代の法律に則って赦されぬ事
公にすれば蔑まれるだろう、

けど
けど、何。

「おれは二条の姓を名乗ることは一生ない」

ぴく、と温和な顔が引きつる。

「そう。…そう仰るのは」