狂おしいほどに紅



黒いもの
何かがういている。
まるで文字のようなものが

「霧…?」

黒い霧のようなものが
但し、読めない。
まるで記号のような

「なに、…なんなの」

まるで芙美を追うかのように、静かに近づいてゆく。
じゃり
砂利を踏みながら足を一歩、下げる。
――恐怖。
芙美は、初めて恐怖を感じたように思惟した。

家も旧家、立場も申し分ない。
尊敬するのは両親、
そして使用人はただのモノだ。
云う事だけを聞けばいいだけのモノだ。
成績だっていい。トップなのだし、既に3年の内容を修学してしまっている。
だから、両親に怒られる心配もない。
大学だって決まっている。
此方が黙っていたって、向こうから声をかけてくれるのだ。
だから、未来の心配なんてしない。
怖いものなんてない。
そう、なんにもない。
怖いものなんて。

ただひとつ気にかけているのが、小桜しきるだった。
小桜しきるは芙美の言葉をことごとく無視をして、唯唯自分を真っ直ぐに貫いている。
むざむざ楽ではない方向へ物事を運ぶ。
教師に反抗するのも、此処の神社の息子なんかと一緒にいるのも
決して学校内から認められない事を貫いている。
猫田の家は神様憑き
関わると、祟られるぞ
そう、両親から教わった。
だから、しきるに何度も何度も忠告した。
でも、もう遅かったのかもしれない。
猫田の家に祟られて、だから一緒にいるんだ。だから授業中に携帯を弄ったり、教師に反抗したりするんだ。

恐怖で足が痺れる。
がくがくとして、うまく歩けない。
芙美の中にあるものは、今や確信と、

如何して
如何して、あんな奴と一緒にいるの――
わたしの方が相応しいわ。
わたしの家に相応しい。
だって旧家でもなんでもない、ただ実家が神社というだけの存在にわたしが負けるわけがない。
しきるは決して神道家ではない。
それなのに
それなのに、何故

確信と、嫉妬。憎しみ、怒り、

じわじわと不可解な文字が芙美の身体を侵食してゆく。
思惟の波に呑まれている芙美の体がふらついている。
浮遊していた文字が全て芙美に飲み込まれた後、ゆっくりと倒れた。


あちらこちらで救急車やパトカーのサイレンが鳴っている。
別段、死霊ひとつお帰り頂いたとて全てが全てなくなったわけではない。
死霊など、この世に五万といるのだ。
ただ他の人間は認識していないだけで
此方が気付かなければあちらとて気付かぬ。
例外はあるが

雲が黒い。風が重い。
湿気の重ささえ分かるような、梅雨よりももっと重い。
足を一歩踏み出す事でさえ、億劫なほどの

「これじゃ、何時までたっても神社に近づけないな」
「そう云うな。しきる、おまえの屋敷から随分離れたぞ」
「随分って云ったって」

髪に差した簪がちりりと鳴った。
まるで声援を送ってくれているような感覚に陥る。
実際、応援はしてくれているのだろうけど

二人とも足を引き摺り、背中を丸めながら歩く姿は何処から如何見ても、二度見されてしまうほど滑稽な姿だ。
外に出ようとさえ思わないのか、
普通の人間は誰一人この砂利道を通らない。

「…松」
「どうした、へばったか?」
「違うよ」

頭の中で何を考えていいのか分からないまま、声に出す。

「松は、…芙美の事」

何を云っているのか分からない。頭の中と思考がうまくかみ合わぬ
それでも他人事のように感じる、自分の云った言葉は
――ひどく、胸を指すような感覚に陥っている。

「好きになったのか?」
「は?」
「芙美の事、よく口に出していたから」

ぴたん
まるで地面に何かが落ちるかのような感覚、
横目で松太郎を見上げると、呆然と左目を見開いていた。

「…一目見ただけで好きになれるわけないだろう」

何云ってんだ、と失笑される。
それでもしきる自身の頭の中はやはり混濁したまま、
何処かで安堵した。
その安堵感さえ、今は流されてしまう。

「分かんないだろ。一目惚れとかあるし」
「俺は一目惚れはしないよ」
「…ふうん…」
「俺はね」

燐、
牡丹と蝶が鳴る。
ふと見上げれば、猩々緋が剥げた鳥居

「…!!」

石階段を駆け上る松太郎を追いかけるが、空気がひどく重い。押しつぶされそうな感覚が肩に圧し掛かる。
魂が宿っていない狛犬たちを何とか通り過ぎ、神殿へと続く石畳を歩くたびそれは徐々に重くなってゆくが、それも直ぐに霧散した。
それでも思ったよりひどくはない。
喜代治と清太郎は此処にはいないという事がはっきりと理解できた。

「松!」

霧のようなものに覆われている神殿の真ん前、
その石畳の上に見知った黒い髪が在った。
倒れているのは芙美だ。
膝をついて、松太郎が息があるかを確かめている。

「芙美、…」
「大丈夫、息はあるけど」
「?」

真っ直ぐに伸びている石畳の置くにある神殿を見上げた。

「此処の真ん中を通ったな。この石畳の真ん中は神の通る道だ。人間は渡ってはいけない」
「…そうだったな」
「唯でさえいけないのに、こんな事態で真ん中を通るなんて自殺行為だ」
「吸われたのかもしれない」
「たぶんな。良くて生気を吸われただけ、悪ければ」

悪ければ、…このまま一生目を覚まさぬ

「きっと今、この娘の意識は混濁したままだろう。自分の中の怒りや憎しみ、妬みに溺れながらな」
「・・・」
「自業自得なんて云うなよ。しきる。…人間誰しも負の感情はある。それが肥大しているだけだ」
「でも、芙美はそういう女だ」
「仮令そうだとしても、だ。とりあえず病院へ運ぼう。此処に長いこといたくない」

腕を肩に回して松太郎が芙美を支える姿を見て、針で胸を刺したかのような痛みに苛まれ、
俯いてくちびるを噛んだ。