揶揄と圧死



清太郎の気配が消えた。
そう、松太郎が呟く。
血筋というものは濃いもので、仮令自ら血を分けた親族がいなくなったとしても、嗅ぎ分けられると松太郎は云う。
GPS機能のようだな、と自身で笑っていた。
神社には既に御神体はない。
そもそも今の産須那神社には、近づけぬ。
近づこうとさえ思えない程、ひどい臭気が漂っている。
実際臭いわけではなく、ただただ「近寄ろうと思わない」というだけなのだが
それでも少し心配だと

「あそこに入っても、守ってくれるものはいない。狛犬たちももう、いないし」

血が辿れないのなら、仕方がない。
離れに部屋を用意してもらい、せめて安全な場所に泊まってもらう。
そうは云っても、この町にもう安全な場所などないが、自宅の神社にいるよりはましであろう。

「狛犬?ああ、あの」
「うん。あの子たちには荷が重過ぎる。すこし離れてもらった」

どこの神社にも神使はいる。
産須那には、牡丹と蝶という像が立っていた。
だが、名がある狛犬とて、容れ物がなければ姿を移せぬ。

「簪」

古びたビラ簪二対が、畳の上に置かれた。

狛犬の姿はない。
狛犬の声は聞くことが出来るが、姿は全て狛犬の像からしか聞けぬ。
故に簪に姿を移したと言うことは、それは簪から声が聞けるということか。

「おまえたち、ごめんな。牡丹と蝶っていったら、これしか見当たらなくて」

りん、
ビラがちいさく鳴る。

「…声も出なくなっちゃったのか」

簪を見下ろし、牡丹と蝶の透かしが入った簪をそっと撫ぜた。

「牡丹をおまえに預ける。少しでもしきるの力になるだろう」

松太郎から渡された簪は、じわりとした冷たさがある。
それは真鍮本来の冷たさではない。
確かに「牡丹」が宿っている。

「…でも」
「牡丹は、おまえの力になりたいそうだ。無理をするからな、おまえは」
「おまえに言われたくない」

死のうとしていたくせに。
胸中で呟いても、声には出さぬ。
それでも松太郎は理解したのか、にがわらった。

「…まあ、十種神宝図はここにある。死霊がこの周辺に害を及ぼす事はないだろう」
「話逸らすな」
「なに、心配なのさ」

誰が、
そう聞く前に、静かに此方を見据える。
松太郎の、左目が僅かに細められた。

「今じゃ、この町で誰が死んでもおかしくないんだ。芙美さんという人も、例外じゃあない」
「何で芙美の名前が出てくるんだよ」
「おまえの友達だろ」

ちりん
手の中の簪が揺れる。
ゆら、ゆら、
友達?
あんな奴が。
違う。
あんな、松太郎の事などひとつも知らぬような女など。

「あんな奴、友達なんかじゃない」
「…そうか。別に友達じゃなくても知り合いだろ。…」

ふっ、
松太郎の右目が見開く。
黒い目玉は、何処か別の場所を見ていた。
何が見えているのか、しきる自身は分からぬ

「松?」
「――誰かが産須那神社に踏み入ったようだ。…あれは…」

ぎゅう、と右目が細められる。まるで、何かを覗き込もうとしているかのように。

「…芙美、さん?」
「芙美!?」
「ああ。――蝶、」

簪を見下ろし、ビラが忙しなく鳴る蝶を宥める。
ちり、

「蝶、おまえが行ったりしたら途端に弾かれる。牡丹、おまえもそうだ」

手の中の簪のビラがゆらゆらと揺れていた。抗議をしているかのように

「だけど、おかしいな。…あそこの神社は今近づこうとさえ思わないのに」
「…松」
「行かなければ、死ぬぞ。あの娘」
「・・・」
「おまえはやさしい子だから、放っておけないんだろ。分かってるよ」

そんな事ない。
くちびるを噛み締める。
それでも死ねなどと云えぬ自分が疎ましい。
畳を撓らせ、松太郎が立ち上がる。

「――行くんだろ。しきる」
「…おれは、」
「おまえが行かないなら俺が行く」

たった一度だけしか会っていないはずの、芙美を
罵った女を助ける意味などあるのかと問えば、松太郎はあると答えるだろう。
何故なら、良くも悪くも「神社の息子」
八百万の神々にこうべを垂れる立場
そうして、一切の罪穢れを祓う立場なのだ。
それが誰であろうと
罪や穢れを目の当たりにし、決して目を背けられぬのが松太郎、
それはひどく辛い事であろう。
逃げられぬのだ。自分の罪穢れからも、他人の罪穢れからも、影のように付きまとって離れぬ

「分かった。おれも行く」
「…うん」
「大概、おまえもお人よしだな」

笑うと、手の中の牡丹がふるえた。
同意しているのか、抗議しているのかは分からないが
松太郎はちいさく笑って、「おまえに言われたくないよ」と手の中の蝶を見下ろす。

「よくない徴だ」


ここだ、と
ぞっとするような空気
それでも前へ足は動く。

きっちりとまとめたはずの髪が揺らいでいる。
足が重い。体が重い。

「熱でもあるのかしら」

額に手を当てても、別に熱くなどない。
息を吐き出して、鳥居を見上げる。
猩々緋が剥げたような色。
神社と言う場所は大嫌いだ。
八百万の神など信じない。
足元に転がるものは、ただの石ころだ。
石神など、そんなものいるはずもない。
御神木とて、ただの巨大な木だ。

「…ふん」

迷わず、神殿へ続く石畳に足を掛ける。
真ん中を歩いてゆくと、僅かな頭痛に襲われた。
それでも、重く圧し掛かる雲のせいだと思う。
重い髪を手で解く。
神殿まであと少し

「祟れるなら祟ってみなさいよ」

ふ、と
髪を何かに引かれた。
下からだから、子供か誰かだろう。

「勝手に触らないでちょうだい」