かようのあしどり



呼び寄せてしまったのは、確かに松太郎の父だ。
だが、父がおかしくなったのは松太郎の眼の所為だと知っている。
見鬼の松太郎の、
そうして薫子と同等の眼を持って産まれた事に、ひどく嫉妬しているのだと
それは知っている。
胸を抉られるほどに、その嫉妬の眼を浴び続けられてきた松太郎の、
その思いは計り知れぬが
それでもしきるは許さない。
許せない。
いなくなるなどと
そんな事
許さぬ

「――…しきる」
「…ゆるさない」
「おまえは町の命より、俺の命をとるというのか」
「そうだ」

迷いなく頷く。
呆れるだろうか。
馬鹿なことを云うだろう。
実際、松太郎の表情はひどく硬い。
しきるを睨み、ふ、と顔を背けた。

「…あれは」

かすかな声
粘り気のある土がコンクリートに落ちるような奇妙な音と共に、黒い何かが此方に向かってくる。
目も口も足も手もない、ただの塊

「…しきる様」

沈黙を守っていた楠木が、眉を顰め口と鼻を片手で塞ぐ。
ひどいにおいだ。
顔をゆがめ、その黒いものを見据える。

「あれは死霊だ。触れれば死ぬぞ。楠木。下がっていろ」
「…もう死者が出たか」

松太郎の顔がひずみ、右目を開いた。
黒々しいそれは、決して人間のものではない。
ずるずると歩いてくるそれは、ひどく禍禍しい。
死が死を呼び、そうしてまた死を呼ぶ。
その輪は消えることはない。

「赦されない」

暗い影
清浄なものが、徐々に黒々しいものに侵食されてゆく様。
それは、失望や絶望に他ならぬ

「…松、?」
「赦さない、と言っている。死者が」
「おまえのせいじゃ、」
「そうだ。これはすべて喜代治の所為。だけど、その怒りの矛先は全て俺だ。死霊の怨嗟を断ち切るためには喜代治を殺さなければ成らない」

ずしゃり、
足音が消える。
死霊の影から、腕が、足が、手が、顔が、口が、

「…う…ッ」
「楠木、行け。死ぬぞ」
「…、ですが」
「行けッ!これは命令だッ!!」

松太郎の面を見据えながら叫ぶ。
体格のいい楠木の肩が竦み、こうべを垂れて母屋へ走っていった。
この分だと照子が来るだろう。
その前に
――そのまえに、

走り去った楠木を一度振り返り、去った事を確認する。

「…松、おまえが死ぬ気ならおれも死ぬ」

ざっ、
松太郎の顔色が一斉に白まる。

「馬鹿な事を云うな!」
「おまえが死ななければおれも死なない。それだけのことだ。だって、ずっと一緒だった。おれはおまえ、おまえはおれ。おれたちはずっと、一緒だった。そうだろ」
「・・・」

ずっ、
死霊が、松太郎に手を伸ばす。
どろどろとした、黒々しい腕が松太郎の腕を掴もうと

「敵わないよ」

肩を落とし、笑う。
死霊の腕がその腕を掴もうとしたとき、松太郎自身の制服の懐にあった鏡をその「死霊に」向けた。
錆びに錆びた、苔色の銅鏡

「――見ろ。おまえたちの姿を」

死霊の腕がまるで時間が止まったように止まる。
手のひら大の鏡を、目さえない死霊はそれでも見ようとしていた。

「死して尚、人間の命をほしがるか。おまえたちの仲間を増やしたとて、決して救われぬ」

鏡の面は見てはならぬ。
そこに映っているのは、人間の奥深くの闇
失望、絶望、そして怨念、因縁、憎しみや妬みの、数え切れぬほどのものが映し出されているのだ。

神社には御神体という存在が欠かせぬ
鏡であったり、剣であったり、石であったり、木であったりする。
産須那神社では鏡であると聞かされたことがあった。
もしかすると、その鏡は御神体なのかもしれぬ。
ヒトにはヒトを、神には神を。

「・・・」

動けぬ
足が痺れて、体の自由が利かない。
手さえも震え、斧を落としそうに成るが、父の形見、落として成るものか。

――これが、畏怖。

だが死霊はまるで助けを求めるが如く、うごめいている。
死霊になったからには、すべて黄泉の路に落とさねば。
黄泉路を歩き、そうして産須那の神の元へゆかねばならぬ。
だがそれも
――在るがままに、成るがままに――

「そうか。苦しいか。なら、行け。とくとくと」

この鏡の行く先へ

「参られ給え。トを水、ホを火、カミを木、エミを金、タメを土」

五元の神にて、

「一切の罪穢れを祓い、福寿を齎す。ト、ホ、カミ、エミ、タメ」

遠つ神、愛み給え。
どうかこのものたちの罪や穢れを祓い、カミになられて福寿を齎し給え

「!!」

まるで何かに縋るように死霊の腕や手が鏡に伸ばされる。
松太郎に伸ばされているような気もしたが、それでも触れることはない。
ただただ、鏡に触れようと、

どん、

何処かに神鳴が落ちたかのような音がしたが、実際はこの目の前でしたのだ。

「…死霊にお帰り頂いたよ。これで少しは被害も減るだろう」
「松、」

鏡を懐に仕舞い、ちいさく息をつく。

「それ、御神体じゃ」
「そう。産須那の神の御神体だけど、非常事態だ、神さまも許してくれるだろ」
「――祟られたり、」
「さあ、どうだろうな。実際、俺の中にとある神を降ろしている。まあ、決して対立する関係ではないから、大丈夫だろう、多分」