ちりんちりん 「なんだと」 4時限目が終わった時、携帯に連絡が入った。 眉間に皺が寄る。 向こうは小桜の家の人間で 険しい声色で、「捜索した人間5人が死んだ」と 『はい。…心臓発作だと警察は。…御家もひどく混乱しております。照子様が表に立たれておりますが』 「分かった。直ぐ帰る。…猫田の家には決して洩らすなよ」 『は。…ですが、時間の問題かと』 「分かっている。…時間を稼いでくれ」 携帯を折り曲げ、鞄を掴んで走る。 教師の怒号が聞こえたような気がするが、今はそれどころではない。 松太郎に知られれば、どうなるか分からぬ。 失望、絶望。 マイナスの思いや思惟は、決して良い方向には向かぬだろう。 だが もしかすると、もう察知しているのかもしれない。 松太郎の見鬼は、真実を確実に察す。 虫の知らせとでも云えばいいのか、 息が切れるのも忘れ、唯ひたすらに足を動かした。 木々の茂み、碧のにおい。 古い木の香りも、全てが今剣呑としている。 町全体が ざわつく。 騒騒としていて、この町の何処にも安寧の場所がないようにさえ思える。 通り過ぎる娘の顔色も、向こうからやってくる男の顔色も、みな悪い。 ――瘴気だ。 しきるの脳髄に、そう囁くものがいる。 たぶん、この状態が続けばこの町のものはみな正気を失い、狂って仕舞うだろう。 「糞ッ」 見慣れた瓦屋根が目に入る。 広い屋敷だとしても、どこか狭く感じるのは人々が多いからだろう。 「しきる様!」 「あ?ああ、楠木か」 「大変なことになりましたな。照子様はこちらで御座います」 楠木は照子の秘書をしている壮年の男で、先刻の電話もこの男から連絡をくれた。 体はひどくがっしりとしていて、秘書というよりも庭師と言うような面持ちをしている。 スーツを着込んだ楠木は、早い足取りで母屋へ向かった。 「お母様!」 奥座敷にいるであろう照子の顔を捜すと、彼女のもとについている数人の男女が此方を見据える。 誰も彼もが顔色が悪い。 照子でさえ、 「…ああ、しきる。此度は大変なことになりました。楠木から聞きましたよ。松太郎さんに洩らすなと言ったとか」 「――当たり前のことです」 「ですが、この気。只事ではありませぬよ。猫田の松太郎様にお任せした方が…」 照子の下で働いている女性が、恐恐と独り言のように呟く。 小桜の家には、見鬼ではないが、少々気に関して敏感な者がいる。 母である照子も其れに値するのだが 浅葱色の色無地を着込んだ照子は、黎とその女性を見据え、「それはなりません」と一蹴した。 「松太郎さんは見鬼。しきるも勿論そうですが、松太郎さんの見鬼は神から頂いたもの。揺らぐことは決してなりません」 「おれが、」 殆ど役に立つことはなかった黒々しいあれが役に立つときなのかも知れぬ。 学校には持って行ってはいないが(見つかれば没収されるであろう。)部屋に鄭重に置かれている。 あれを振り回す事がないようにと祈ってはいたが 「――おれが、戦う」 「…それもなりませぬ。しきる、おまえは大事な小桜の娘。わたくしが出ましょう」 「ですが、お母様。おれは死ぬ気などありません。お母様が出る迄も」 しきる、と 母のか細い声が聞こえた。 慈愛の篭った、ほんとうに愛しいものにするかのような声色は しきるの胸をひどく痛ませる。 ――それは、「しきる」というおれに向けたものではない。 「お父様の形見、このしきる見事使いこなしましょう」 ひふみよ いむなや こともちうらね しきる ゆゐつわぬ そをたはくめか うおゑに さりへて のます あせえほれけ 神霊を慰め万の災いをして幸いにかえさずということもなし。 それがヒフミの神歌である。 名付けたのは薫子であった。 災いを幸いにかえ、とくとくと全うすべし、と 「しきるの名に賭けて」 「…しきる、」 「兎に角、清太郎さんを探します。喜代治さんが元凶ならば、後々でもよいでしょう」 「しきる様、私も参ります」 大きな体を揺らせながら、楠木が声を落とす。大座敷からの帰り、声を潜めるように呟いた。 だが、楠木は照子と同じ若干分かる程度である。 6人目の犠牲者になるかもしれぬ。 「駄目だ。楠木。おまえは残れ。…おれひとりで充分だ」 「――ですが」 「なに、死んだ親父から血の滲むような思いで特訓したんだ。簡単にやられてたまるか」 「…は」 それより、 「松の事を頼む。何か在ったら連絡してくれ」 「――畏まりました」 己の部屋に入り、僅か大きい供物台の上に置いてある鉄の斧を持つ。 ずしりとした重さは、手に良くなじんでいる。 腕を振り、重たげな音を立てて折りたたんだ刃が表に出た。 「…松、」 だいじょうぶ。だいじょうぶだから。 松。 ふっ、と息を斧に吹きかけ、紐できちりと髪を結ぶ。 「きっと、何もかも良くなるよ」 おまえのお父さんも、おまえのお兄さんも きっと、 だから、だいじょうぶ。 |