みておいでなさい



からん

「御帰りいただきたい」

まだぬれたままの髪の毛が、風にさらされてゆく。
なまぬるい風
ひどく、さんざめいている。
黒いうねり
黒い風、空、雲

「・・・」

だめか。
聲すら届かぬ
こういうものは自我がないから怖い。
風や雲ともの
それに自我がないからこそ、どうということもできるのだ。

「…彼方方のような方は、このような場所に留まる理由などないはずです」

忌々しい白髪が、湿った風に中る。

御神木が枯れ始めてきた。
徐々に黒ずんできている。
御神木がたおるる時、この産須那神社は滅びるだろう。
だがそれも、父である喜代治の思惑通り
松太郎自身、見鬼ではあっても呪術的な誓約をこの産須那の神と交わして訳ではない。
よって、ここの神社では何の力もないと同意である。

「・・・」

――駄目か。
もう、この神社は終わりだ。
だが、まだ諦めきれぬ
うつくしく茂った杜、
その杜を易々と打ち捨てる事など、松太郎には出来ない。
禮、
その心根を忘れた父は

「松太郎」

御神木の杜
その杜に吹きすさぶ湿った、黒い風が一層強まる。
ここ数日姿を見せなかった喜代治が短い髪を風にさらせながら、立っていた。

「…とうさん」

顔が見えぬ
聲が淀んでいる
確かに『憑かれている』
自分自身の、憎しみや怒り、妬みに。
所謂「負の感情」に
あまりの黒々しい心理に、顔が知らず知らず歪む。
白い白衣、薄縹の袴
それさえ、松太郎の目では黒々しく見える。

「…どうして、こんなことを…」

着流しの裾を押さえながら、問うが
喜代治には聞こえていないのだろう。
真っ向からぶつかってくるのは、憎しみや怒り、妬みのみ。

「…どうして?どうしてなど、貴様が良く分かっているのではないか」

肩を揺らせながら哂う男は、それでもよく顔が見えぬ
たぶん喜代治からも、松太郎の顔は見えぬだろう。
ここは「そういう」場所だ。
「神霊悉く」という処だというのに。

「…父さん。この町の平和や氏神様たちの鎮魂を一心に祈っていた頃の父さんが俺は好きだった」

仮令、俺を憎んでいたとしても
氏神様や、産須那の神を祀っている事を、松太郎は誇りに思っていたのだというのに
それも今や、

「私は貴様とは違う。昔の私は見鬼でもヨリマシでもない、徒の無力な男だった」

肩を揺らせながら嗤っている。
嘲っている。
見鬼ではない、息子である松太郎を。

「力がない事を恥じた。だが、5年前私の中に神が降りてきてくださったのだ。我を崇めよ、奉れ。そうすれば御前に力を授けようと」
「…それを、信じたのか」
「私はこの神社の宮司である。当たり前のことだ」

支離滅裂だ。
もう殆ど、
話が通じない。

「産須那の神は、悪人善人全てに平等だ。それでは不公平ではないか。慎ましく、そして善き事をして生きたとて、欲望のまま、そして憎むがまま己の全てに正直に生きたものとて行く先は同じ。そんなものおかしいと思わないか」
「最後の審判は産須那の神の役目だ。俺たちが言うべきことじゃない」
「だからこそ、神下ってくださったこの力の神は、産須那の神にゆく前に審判を下してやろうと言うのだ」
「人間の罪は人間が裁く。罪を償うからこそ、彼岸ではみな平等なんだ」
「支離滅裂だな。松太郎」

嘲るように嗤う男は、一歩、足を踏み入れた。
ずしりとした、肩と背中全体の重みが体を蝕む。
この杜全体が、この喜代治に共鳴しているかのように

「生きた人間を、神が裁くことは赦されない」

覆いかぶさる黒い影
憎しみや妬み自体の、影。
それが松太郎を一心に呪おうとしている。

「ヒトは私を呪い屋と呼ぶが、それは間違いだ。私は裁かれる人間を裁いているだけで、感謝されてもいいと思うのだがな」

まるで悪人が綴る、愚かな台本のような言葉が自身の父の口から出る言葉が、松太郎の顔色を一斉に青ざめさせてゆく。

「恥を知れッ!!」
「――松!」

掴みかかろうと重い体を引き摺った時、しきるの声色が耳を通り過ぎた気がした。
その腕を掴んだ力は、ひどく冷たい。
頭の中が霞がかったような感覚、もう自分がどうなっているのかさえ分からぬ。

ただ、父の嗤い声が聞こえたような気がした。


「…ぅ、…」

視界が暗い。ぼんやりとしていて何がどこにあるか分からない。
手を伸ばす。
冷たい手が、握ってくれた。

「…しきる…?」
「うん」
「…中てられた」

体が重い。
それでも、先刻よりはだいぶマシだ。

「うん。清太郎さんが少し祓ってくれたよ」
「兄さんが?そういえば、兄さんは」
「清太郎さんなら、喜代治さんを探しに行った」

背中にやわらかい感覚、たぶん布団の上だろう。
もしかするとあの後倒れてしまったのかもしれない。
情けないことだけど

「ごめんな、迷惑掛けた」
「そんな事ないよ。困ったときはお互い様だろ。…起き上がれる?」
「うん」

ゆっくりと起き上がると、のそりとした重たい音が聞こえた。
白く巨大なものがいる。
目が見えなくとも、分かるものは分かってしまう。

「あ、」
「おまえか」

ふと上を見上げれば、見慣れた天井が徐々に見えてきた。
目がないはずなのに、じっとこちらを見つめているような気がする。
体を屈めて、まるで加減を見るかのような姿勢に僅か笑う。

「…おまえには世話になるから、なまえをつけなきゃなあ」
「なまえ、」
「そう。しきる、何かないか」
「まさかなまえをつけるなんて思わなかったから何も思いつかないよ」

笑って、しきるはその白くて巨大なものに目を向けた。