あの街の憧憬



「――夜、台風が最も接近し――」

松太郎の部屋にあるちいさなテレビの中のアナウンサーが真剣な表情で天気予報を伝えている。
アナウンサーの声しか聞こえない部屋は、松太郎もいるというのにどこかさみしい。
真向かいに座った松太郎は、ぼんやりとテレビを見据えていた。
この屋敷は古いけど、造りはしっかりしている。
このくらいの台風なら屋根瓦が飛ぶとかそういうことはないだろう。

「あの、…松」

片腕を机についていたのを離して、そっと問う。
眼鏡をしている松太郎は、まだ見慣れぬ
ん、とテレビから目を離してこちらを見つめた。

「どうした?」
「さっき松、何て云ったの」
「…ああ、別に大したことじゃないよ」

ちいさく笑って、テレビに再び視線を投げかけようとした松太郎の腕を掴む。

「?」
「…松、」

自分でも何を云いたいのか分からない。
喉が痛い。苦しい。

近づけない。むかしはもっと、

「…おれ」

おまえのこと、もっと知りたい、
もっと、
むかしはほんとうに、近かった。そばにいれた。
それが少しずつ崩れてしまったのは3年前、
松太郎の母である、薫子が亡くなってからだ。

「おれ、おまえのこと、知りたい」

声はかすれてしまったけど
それでも
声に出せた。声に、出してしまった。

「…知ってる、つもりだった、けど…」
「・・・」
「なんだろう、今、すごく遠い気がする」

アナウンサーの声が遠い。
がたがたと窓硝子が鳴っている。
台風がもう少しでいちばん接近する。
先刻のアナウンサーが言っていたけど、その時間は忘れてしまった。
いつだっただろうか。もしかすると、もう直ぐ傍まできているのかもしれぬ

「遠い、かな」
「うん」
「そっか。…遠ざけていたのは、」

きっと俺なんだろうね、と
半ば諦めたような表情で微笑む。

「ごめん、しきる」
「…なんで、謝るの」
「分からないけど、ごめん。でも昔はよかった、なんてことは俺、言わない」

腕を掴んだままの手が、無様にふるえた。
それに気付かないふりをしてくれているのか、松太郎はただただ、視線を真っ直ぐしきるに投げかける。

「今は今。昔は昔。振り返ってはいけないということもない。だけど、歩かなくちゃいけないこともある。今は、そのときなんだ」
「…それ、どういう意味」

やはり無様にふるえる声が、どうしようもなく厭だ。
左目の、やわらかなひかり
その口調は、どこまでもやさしい。

「俺の目は、もうじき失明する」
「――え」
「片目だけで生活するのは、もう無理だったみたいだ。そもそも片目を失明すれば、片方の目も失明する」

もう、殆ど見えないのだと言う。
がらりと何かが落ちる。
体から何かが欠けた音が。
気付けば腕を離していた。
離してはいけないと思っていたのに

「…だけど、手を引いてくれるものがいる」
「・・・」

あの白い巨大なもの
あれがいるから学校も通い続けることが出来るとちいさく笑う。
それよりも、
怒りよりも、悲しみよりも
胸の痛みが
熱のように灯った。

「あれはきっと、俺の目になるためにやってきてくれたんだろう」

懐かしそうに呟く松太郎の目玉は、あまり焦点が合っていない。
よくよく見れば
瞳孔が光を映していない。

「松、…おれ、やっぱりおまえのこと、なにも…」

知らなかった。否、目のことは知ろうとしなかったのかもしれない。

「しきる。知らない事を責めてはだめだ」

離してしまった手を、松太郎が視線をたゆたわせたまま掴む。
この男は、なんて強いのだろう。
そして、なんて哀しいのだろう。
それでもその手が冷たく冷えている事に、目をぎゅう、と瞑った。

「ヒトは無知から生まれるものだ」
「そんなの、どうだっていい!」

子供だ、と思う。
しきる自身、どうしようもない子供だ。
たった一才しか違わぬのに
駄々を捏ねる子供と同じようにすれば、松太郎の哀しみも辛さも解けるなら、いくらでもしよう。

「おれはおまえで、おまえはおれだ」
「…、しき、」
「約束、した」

ちいさいころ
とてもちいさいころ、
しきると松太郎はよく似ていた。
黒い、まだやわらかな手触りの髪も、目元も
互いの家があまりの仲の良さに、同じ生地で作った着物を着せたくらいに

「なにがあっても、いっしょにいるよ――」

おれはおまえ、おまえはおれだから

泣き出したかった。
痛い。
胸が痛い。

「…う、…っ、ぅ、っく」

長い髪が此れほど邪魔だと思ったことは無い。
頬に張り付いて、本当に邪魔だ。
俯きすぎて、頸が痛い。

「…しきる、」

そっと肩を撫でられる。

「う、う、ぁ、ああ…」
「…しきる…」

どうして、おまえじゃなくちゃいけなかったんだろう。
全てが
どうして、おれたちじゃなくちゃいけなかったんだろう。