思えど思えど



「松!」

松太郎の様子がおかしい。
体を丸めて、目を覆っている。
息遣いさえ聞こえる、白く巨大なものはゆったりとした速度で松太郎の体を覆おうとしていた。
ぎん、
鉄の棒に見えるそれは、折りたたみの凶器に様変わりする。
人間には害は無い。
斬るのはこういうものだけだ。

「…松、」
「ごめん」
「…謝るなよ」

ぎい
動いたら瞬時に斬ろうとしたが、それは徐々に消えてゆく。
ほんとうに悪いものだったら、今の松太郎につけ入ることは容易かっただろう。
ならば、ほんとうに悪いものでもいいものでもなかったのかもしれない。
鉄の凶器を折りたたんで、ベルトに差し込む。
目の前に倒れこむように丸まっている松太郎の横に座って、背に触れた。
すこしだけ、熱い。

「松、…松、」

背中をさすると、かすかな細い息が聞こえる。
精神を食われたのだ、と理解した。
ああいうものは人の命など二の次だ。
あれらは、人の精神を食う。
生きるための気を食うのだ。

「ごめん」
「謝るなって」

ぽたん
松太郎の頬から汗が滑り落ちる。
どうしようもないという事は知っていた。
見鬼にとって死ぬまでそれは付きまとう。
虚を突かれれば、あれらの思う壺だ。
せめて心を安静にし、清浄に保たねばならない。
ここは神社だというのに、ああいうものが来たと言う事は、清浄ではないと言う事だ。
それは3年前からだ。
おかしくなったのは。
それは宮司である喜代治が清浄な気を保てなくなってきたからだろう。
松太郎や松太郎の兄である清太郎がいるだけで何とか容は保たれているが
『宮司』という役割、所謂呪術的な法式に則って決められたものの存在は大きい。
そろそろ清太郎に譲らなければならない時期なのかもしれないが、これはしきるが口を出す事ではない。

「…もう、大丈夫。ありがとな」
「…うん」
「俺、」

白い髪がゆらりとゆれる。
左目もやはり不安定にゆらいでいた。
黒の虹彩
それでも僅か、薄い。
日に焼けたのだろう。

「俺、な」

目と目が合う。
何かを云おうとしている。
それでもくちびるを噛み締めて、とうとう発する事は無い。
無理に聞くつもりは無いし、そっと笑ってみせた。
ひとつ年上の松太郎は、それだけでひどく安堵したような表情をみせて
まるで子供のように笑う。


「松太郎」

襖の向こうで声が聞こえた。
松太郎の兄の清太郎だろう。
顔も声も見知りすぎている。
強く握り締めていた所為でくしゃくしゃになった髪の毛を頭を軽く振って整えた姿は、どこか動物のようで再び笑う。
す、と静かに襖が開いて、驚いたように清太郎の眼が見開かれた。
清太郎は黒髪を短く切って、釣り気味の目が松太郎とよく似ている。
白い白衣を着て、袴を履いている姿を見れば、たぶん掃除でもしていたのだろう。
なら、雨も上がっているはずだ。

「ああ、しきる君、来ていたのか」
「何か用?」

まだ完全に本調子ではないからだろうか、僅かぶっきらぼうに問うた。
それでも清太郎は別段気にする様子もなく、「いや」と頸を傾ける。
頸を掻いて、ほんとうに分からないとでも云うように困ったような表情をするが、どうしたのだろう。

「…なんか、変な空気が通り過ぎたような気がして」
「――ふうん」
「松太郎、」

何かを問うように、眉を顰めた。

「…大丈夫だよ。…もう」

つい、と視界をしきるに移す。
頷くのを促すかのような仕草、素直にしきる自身も頷いた。
立ったままの清太郎が、かすかにため息を吐き出して目を伏せる。

「…分かったよ。…じゃあ、しきる君。今日は親父いないから、ゆっくりしてってよ」
「あ、ありがとうございます」
「兄さん」

襖を閉めるその手を左目で制す。
松太郎の声は、先刻と代わって凛としていた。
背筋もぴんと伸びている。

「…あとで話がある」

しきるにも聞こえないような声で呟く。
それでも清太郎は聞こえたのか、静かに頷いて今度こそ襖をぴたりと閉めた。


「おれ、おまえを守るよ」

松太郎が清太郎に話しかけた後、初めてしきるが呟く。
黎と響くその声に、横に正座で座っている松太郎のくちびるが僅かわなないた。

「学校違うけど、ずっと一緒だっただろ」
「――…」
「おまえがまだ小さかったころも、おれがもっと小さかったころも、ずっと一緒だった」

ずっと
ずっと一緒だった。
齢4の時からだろうか、もっと小さかったかもしれないが、小学校を上がる前からずっと
それなのに、どうしてこれほどまで遠いような感覚なのだろう。
しきるは目を伏せて畳の目を見下ろした。

「なんか、近くないよ」

松。

「おれ、おまえに近づけてるのかな」