冷たくて痛い



頭を撫でる感覚
それは、撫でられる感覚にも似ている。
すこしだけ体温が高い。
背の半ばまである黒い髪色は、手入れが行き届いているようでさらさらとしていた。
しきるは、女として育てられた事は知っている。
今も女として育てられているのだろう。
まぎれもない、あの優しく笑う、それでも恐ろしいとさえ思えるしきる自身の母親に。
人間とは、あそこまで狂ってしまえるのかと
どこかで恐怖を覚えた。

「…しきる」
「ん?」
「おまえ、髪伸びたなあ」
「うん」

机の上に突っ伏したままのしきるは、ほんのちいさな声で相槌を打つ。
艶のある髪は、黒だからこそ際立つ。
松太郎とて、元々は黒い髪だった。
それが白に染まってしまったのは三年前、
事故があった日に白くなってしまった。
右目を失ったショックと、薫子を失ったショックで色が抜け落ちたのだろうと医者が云っていたのを思い出す。

「切らせてくれないんだ」

女の子だから

「・・・」
「前、切ろうとしたら鋏取り上げられて、すっごい怖い顔で何をするの、って母さんが」
「そうか。…今なら気付かれないで切れるけど」

その問いをしても、是としないのがしきるだった。
うらぎられないのだ。
狂っても血のつながった親子なのだから
そんなもの、松太郎は信じない。
狂っているとしきるが母を指すなら、松太郎自身の父も狂っている。
産須那というものは、死後の世界で裁く役割を持つ神と聞く。
善悪正邪を問わずに
天国も地獄も無いという事だ。
尤も神道においては関係の無い事だが
その神を祀っている神社は、あまり多くないかもしれない。
父親は、死後の世界しか見ていない。昔は違った。
松太郎を煙たがっても、神に対して誠実だった。
誠実で、前向きだった。
だが母が死んでから、死後の世界しか見なくなったのだ。
死んだら母に会えるとでも思っているのだろうか。
死んだら神になり、氏神になり、人々を見守る。たったそれだけの存在に、幸福を求めているなんて狂っているとしか思えない。

「くだらない」
「…松?」
「いや、おまえのことじゃない」

苦笑いすると、しきるはがばりと顔を上げて、じっとこちらを見据えた。

「…松、おまえ、…」

途切れ途切れの言葉、
かすれたような声。
どうしたのかと問えば、しきるは長い髪を一気にひとつに束ね、淡い飴色の薄いカーディガンの釦を外した。
腰のベルトに刺さっている一本の黒い棒
黒光りするそれは、プラスチックなどではなく、重い鉄にも似ている。
実際鉄なのだろう。
危ないからと触らせてはくれないが
それに手を掛け、まるで警戒する狗のようにこちらを真っ直ぐに睨む。

「どっからつけてきた、それ」

低く唸って、後ろを振り向く。

「・・・」

白く、巨大な「なにか」は、目さえない。
ただ口があるだけで、脚も手も無い。
ぼんやりと佇むそれに、一体いつ憑けたのだろうと思考するも、思い当たるふしが無い。
それでもしきるさえ今気付いたのだというのだから、ずっと前ということもないのだろう。

目さえないそれは、それでもこちらをじっと見下ろしているようにみえる。

「悪いものでもないみたいだけど」
「…悪いものとかいいものとか、そいつらはそういうのじゃないだろ!」
「別にいいよ。もう、何だって」
「…松」

これは八つ当たりだ。理解しているし、分かっている。
ありありと怒りを滲ませているしきるの手は、ふるえていた。
自分の事でそんなに怒ってくれる人間は、きっとしきるだけだろう。

「そういう事云うなよ。おれは松がいなくなったらいやだ」
「…ごめん」

白い巨大なものがゆらゆらと揺れている。
なまあたたかい呼吸のざわめきが、鼓膜を揺るがす。
しきるは、ふるえる手をその棒に手をかけたまま、泣きそうに顔をゆがめた。
殆ど無意識とは言え、悪い事を云ってしまった。
この見鬼の所為で、殆ど友人らしい友人もいなかった松太郎もしきる互いに初めて出来た親友で
その親友と言う言葉と意味を、ひどく大切にしていたというのに。

「…ごめん、今日、俺、」

忌々しい白い髪を顔を覆うように握り締める。

医者に言われた言葉が、脳を響かせた。

もうじき、失明するでしょう

云いづらそうに、壮年の医者が呟いたのを思い出す。
きっとその不安が目を霞ませ、しきるの目をも霞ませて
それを呼び寄せてしまったのだろう。